よみがえれ! 二中魂
「 キャプテンから、はずした」
二中野球部の新チーム結成、新潟合宿の2日目、新チームのキャプテンを決める日。
ひと学年上の、先輩から、長時間の話し合いがあった後に、一人伝えられた。
新チーム結成は、先輩たちも、「新キャプテンは、蒼島でいく、ということだったけれど、怪我(肩痛)のことを、考えると、負担がかかりすぎるので、最後の段階で、キャプテンから、はずした」とのことだった。
今まで、三倍の元気(声)、三倍の勇気、三倍のスピリットで、チームを引っ張って来たつもりだった。
先輩たちの新チーム結成の初試合は、真夏の二中グランド、終盤まで、劣勢の中を、6回途中代打で出場、2アウト満塁から、ライトへ、逆転のエンタイトル2塁打を放ち、新チーム初勝利に貢献することができた。
その結果、秋の新人戦、1年生30人近くいる部員の中から、4人だけ、正規のベンチ入りし、背番号をいたた゛くことができた。
内野手用グラブには、春夏甲子園出場の、日大一高野球部でショートでキャプテンだった吉原選手にサインしていただいたものを使っていた。(日大一高の主将の吉原遊撃手は、その後、明治大学野球部でも、ショートで、キャプテンとして活躍することになる)
僕は、小学校の時から、ショートでキャプテンだった。
そして、中学の最終学年のイメージは、ショートで、キャプテンで優勝する。
高校野球・大学野球も・・・・・ショートで、キャプテンで優勝する。
しかし、今まで野球で、築き上げたものが、一挙に崩れてしまった。
はじめての、野球での挫折だった。
新チームの秋だけ、ポジションも、初めて、ライトを、守るようになった。
送球のことを、考えると、今から考えると、無謀のようなポジション変更だったけれど、
小学校、中学校、高校、大学の野球人生の中で、はじめて経験した外野手は、今思うと
よい経験になった。
上級生になり、はじめて背負う2ケタの背番号。
2ケタの背番号が、こんなに重いものとは、思わなかった。
背番号発表のあった日の、帰りのバスの中、人ごみの中、涙が止まらなかった。
東京・練馬で一緒に野球試合をしていた仲間は、リトルリーグで、日本一になった。
そちらには、合流せずに 自分で選び、自分で挑んだ道で、はじめての挫折を味わった。
今もふくめて、今までの人生で、いちばん悔しい、涙だった。
ただ、人目をはばからず、流した涙の数の分だけ、心は、たしかに強靭になれた。
リトル日本一のメンバーから、「一日も早く、肩が治ることを、祈っている」と手紙が来た。
彼は、その後、早稲田実業高校野球部に進んだ。
中学の野球部時代は、屈辱の3年間で、終わってしまった。
一番、プレー、技術も伸び盛りのチャンスの時期に、実戦練習ができなかった。
しかし、怪我も、実力だ。
1年夏の、華々しい、代打で逆転ライトオーバーの2塁打デビューが、遠く感じた。
中学3年の秋に、「(高校では硬式野球をやらないで)、中学の後輩たちの・・・・・・」という話を、中学の監督から聞いた。
ただ、僕には夢があった。
どんなに、怪我をしていようと、夢の力がある。
体の痛みも、心の痛みも、外からは見えない。
夢の力も、外から見えない。
「高校の3年間で、中学3年間の屈辱を晴らしてみせる」
「男の意地にかけて、硬式野球部で、逆転してみせる。」
周囲の反対を振り切って、ニコウ野球部に入部する。
振り返ってみると、後に、当時の二中野球部の先輩・同期・後輩メンバーのなかで、夏の甲子園大会に出場できたのは、二中野球部の1年の秋に、背番号をもらった3人だけだ。(4人のうち一人は、高1年の冬に、野球部を退部したため)
二中野球部の1年の秋の3人メンバーが、そのまま、夏の甲子園球場の土を踏んだ。
練馬のリトル日本一のメンバーも含めて、中学の野球部の同期も含め、大学野球の最高峰、東京六大学リーグまで、野球を続けたのは、自分一人だけだった。
ほんのすこしだけれど、、10年間の青春の意地だった。
今では、二中野球部時代に、味わった試練に、ほんとうに感謝できる。
夢があるから、顔晴(がんば)れる
明日に、輝け!
めざせ!君だけの甲子園!
君だけの頂点!
君だけの大優勝旗!!
by 蒼島俊男
君へ
これから、あとから振り返って、大人になって、野球の悔いだけは、残してもらいたくない。
野球が好きなら、挑戦してみるがいいよ。
夢の力だけは、だれにもさえぎることなんでできないよ。
夢への挑戦の先には、君の青春、今まで味わったことがない、今までと違う、満足した景色が、必ず見えるから、・・・・・・。 俊男
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