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連覇

「連覇」

大学1年生と2年生の時に、母校明治大学野球部は、全日本大学選手権で、激戦を勝ち上がり、連覇を成し遂げる。

 1年生の時は、決勝は、東都リーグの王者駒澤大学野球部。

 2年生のときは、関西リーグの近畿大学野球部。

ともに、鍛え抜かれた強豪だった。

母校明治大学野球部は、島岡監督が現場復帰された一年目の大会だった。

島岡監督の最後の黄金期に、集まった明治の選手たち。

アメリカ遠征から、帰ってきて、グレーのユニフォームで、リーグ戦に挑む。

当時の明治は、監督の思いで、現在のアイボリー色のユニフォームと、グレーのユニフォームを使い分けて、大会に挑んでいた、

ユニフォームの袖には、島岡監督の干支である、【猪の絵柄の金マーク】が入る。

(ちなみに、制服のブレザーにも、スタジアムジャンバーにも、すべて猪の金マークがはいっていた)

 『全日本選手権2連覇達成!』

ではその原動力となった、ある儀式は?

        

 それは、島岡監督は、ピンチやチャンスになると、選手たちを集め、『本氣の円陣』を、自ら輪の中に入って、行っていた。

 島岡監督の雄姿が、瞼に映る。

 僕も、やはり、島岡門下生のはしくれの一人、末弟だと、思う、

なぜなら、20世紀、島岡監督が、神宮球場で、勝負どころで、行っていた、『本氣の円陣』を、同じく神宮球場で、チームの勝利のために、21世紀に、同じ思いで、自然と行っている自分があるからだ。

『かえるの子は、やはり、かえる』だ。

いま、原点に帰るとき。

 島岡監督は、小学校までしか、野球選手の経験はなかった。

しかし、あの情熱で、『連続日本一を勝ち取った』。

日米大学野球選手権にも勝ち、世界制覇もした。

そして、日本の野球の殿堂入りをした。

島岡監督は、練習でも、1年の夏を迎えると、最高の試合帽子(紺帽と呼ばれていた)をかぶらせた。(紺帽をかぶると、明治の野球部員の一員になったような気分だった)

そして、全選手は、紫のストッキングを、はかせていただいた。

さらに、、制服は、学ランから、全員ブレザーに変えさせた。

当時で、大学野球部で、制服にブレザー(金の猪マークだが、夏は、Tシャツ、冬などは、スタジアムジャンパーなどを着せる)着用させたは、明治大学野球部以外は、皆無だった。

連続日本一の、明治大学野球部の最強世代だった 門前の小僧だったの一人として、今、監督の思いを、次世代の選手にも、ぼくらしく、伝えていこうと思う。

勝つ雰囲気(チームの勢い)と、勝負の厳しさは、五体に染み込んでいる。

  『練習や試合を観ている人々が、「夢を感じ、そして、有難う』と言ってくださる、野球をすること。

 人々に、夢と感動、希望と勇気をあたえる練習と試合を、日々実践する。

激戦を勝ち上がるに、原動力は、これしかない。

 い

              

島岡吉郎監督

  門下生   

       監督室のベンチ前、掃除係

          門前の小僧だった、蒼島 俊男

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