ユーザー画像

最近の記事

Powered by Blogzine[ブログ人]

OCN 検索

最近のトラックバック

大学生OB集合

「若手の大学生OBは、立川グランドへ 、ユニフォームを持って、集合!」

夏の西東京大会の開幕まで、あとわずか。

夏大会前は、僕も、大学時代は、野球部の同級生選手や、後輩の選手をつれて、立川グランドに、練習の手伝いをさせていただきました。

 後輩の投手は、静岡出身。

ノックは、神奈川の横浜出身。

各県の出身の選手が、母校野球部を応援してくれました。

「夏大会前は、学生OBは、ユニフォームを持って、立川グランドへ」

これが、母校野球部の伝統でした。

さて、その伝統を継承する若手大学生OBのみなさん、すこしの勇気をもって、立川グランドへ行こう!

 とくに、左利きの大学生OBは、貴重です。

(この夏は、左腕の好投手がが多いので)

他校出身の 左腕もつれて来てください。

どうか、よろしくお願いいたします。

                    蒼島 俊男

連覇

「連覇」

大学1年生と2年生の時に、母校明治大学野球部は、全日本大学選手権で、激戦を勝ち上がり、連覇を成し遂げる。

 1年生の時は、決勝は、東都リーグの王者駒澤大学野球部。

 2年生のときは、関西リーグの近畿大学野球部。

ともに、鍛え抜かれた強豪だった。

母校明治大学野球部は、島岡監督が現場復帰された一年目の大会だった。

島岡監督の最後の黄金期に、集まった明治の選手たち。

アメリカ遠征から、帰ってきて、グレーのユニフォームで、リーグ戦に挑む。

当時の明治は、監督の思いで、現在のアイボリー色のユニフォームと、グレーのユニフォームを使い分けて、大会に挑んでいた、

ユニフォームの袖には、島岡監督の干支である、【猪の絵柄の金マーク】が入る。

(ちなみに、制服のブレザーにも、スタジアムジャンバーにも、すべて猪の金マークがはいっていた)

 『全日本選手権2連覇達成!』

ではその原動力となった、ある儀式は?

        

 それは、島岡監督は、ピンチやチャンスになると、選手たちを集め、『本氣の円陣』を、自ら輪の中に入って、行っていた。

 島岡監督の雄姿が、瞼に映る。

 僕も、やはり、島岡門下生のはしくれの一人、末弟だと、思う、

なぜなら、20世紀、島岡監督が、神宮球場で、勝負どころで、行っていた、『本氣の円陣』を、同じく神宮球場で、チームの勝利のために、21世紀に、同じ思いで、自然と行っている自分があるからだ。

『かえるの子は、やはり、かえる』だ。

いま、原点に帰るとき。

 島岡監督は、小学校までしか、野球選手の経験はなかった。

しかし、あの情熱で、『連続日本一を勝ち取った』。

日米大学野球選手権にも勝ち、世界制覇もした。

そして、日本の野球の殿堂入りをした。

島岡監督は、練習でも、1年の夏を迎えると、最高の試合帽子(紺帽と呼ばれていた)をかぶらせた。(紺帽をかぶると、明治の野球部員の一員になったような気分だった)

そして、全選手は、紫のストッキングを、はかせていただいた。

さらに、、制服は、学ランから、全員ブレザーに変えさせた。

当時で、大学野球部で、制服にブレザー(金の猪マークだが、夏は、Tシャツ、冬などは、スタジアムジャンパーなどを着せる)着用させたは、明治大学野球部以外は、皆無だった。

連続日本一の、明治大学野球部の最強世代だった 門前の小僧だったの一人として、今、監督の思いを、次世代の選手にも、ぼくらしく、伝えていこうと思う。

勝つ雰囲気(チームの勢い)と、勝負の厳しさは、五体に染み込んでいる。

  『練習や試合を観ている人々が、「夢を感じ、そして、有難う』と言ってくださる、野球をすること。

 人々に、夢と感動、希望と勇気をあたえる練習と試合を、日々実践する。

激戦を勝ち上がるに、原動力は、これしかない。

 い

              

島岡吉郎監督

  門下生   

       監督室のベンチ前、掃除係

          門前の小僧だった、蒼島 俊男

創部100年

T02200262_0378045010293447297 もうひとつの母校 明治大学野球部は、本年創部100年を迎えました。

 昨日、同期の野球部のメンバーと、東京・新宿で

明治大野球部同期会を行いました。

 全国から、多数の同期のメンバーが、来てました。

僕は、明治の野球部は、人のつながりを、大切にする

日本一の野球部だと思ってます。

同期会には、一緒に、入部した仲間たちという集いでした。

4年間やったものもいれば、数ヶ月・1年で、それぞれの道に行った仲間もいます。

野球部の卒業の年は、それぞれ違います。

けれど、そんなことは、なんにも関係なく、一緒に、明治の野球部の門をくぐった仲間が集まりました。

すぐに、あと時と同じように、ひとつになれました。

僕らは、入学した年に、全国制覇(先輩たちが連覇)しました。

ただ、そんな事より大切なもの。

ひとりの仲間を、どんな立場であろうと、いつまでも、どこまでも、大切にする、明治大野球部です。

当時の明治野球部の使命は、エリート軍団である 「打倒 早慶」 唯 一つでした

明治はエリート集団の野球部ではなかった。けれど、やっぱり僕の誇りです。

仲間を大切にする日本一の野球部だと思います。

 同期会の最後に、あの時と同じように、リーグ戦の試合前に行うように、

全員で円陣組んで、肩を組んで

明治大学の校歌を声高らかに歌いました。

「 おおー 明治 その名ぞ 我等が母校 

  おおー明治 その名ぞ 我等が 母校

白雲なびく 駿河台  ・・・・・・・・・」

http://www.youtube.com/watch?v=6_gGGiXOE_s

創部100 年のこの年を、仲間とともに、勝利の栄冠で飾っていきます。

http://www.youtube.com/watch?v=WFnLHpZVtZ0&feature=related

 

セレクション

Ontainoyakata_simaoka

「どうせ、大学で野球やるんなら、いちばん練習の厳しいところに行きたい」

高校3年の夏、8月の中旬。

7月に、西東京大会準決勝で、6対11で、僕らの夏を終える。

高校の現役を終えたあと、一人考え、当時大学野球界では、いちばん厳しい指導をするという明治大学野球部 島岡吉郎監督の下で野球をやりたいと強く思う。

しかし、技量も、学力も、その域に、遥かに達していない。

 同級生に投手を、明治大・島岡監督が観て見たいとの連絡が、母校野球部に入る。

二高の美濃部野球部長と明治大島岡監督との信頼関係があった。

急きょ、自分の同級生に投手に、同行するように監督から声がかかった。

「投手の球を捕ってあげろ?」という指示だった。

ただ、明治大グランドに入ると、同級生の投手は、ブルペンへ。

僕は、すぐに内野のノックに加わるように、大学生から言われた。

ノックを、大学2年生と受けた。大分出身の、2学年上の先輩が、ノックをポロポロエラーしてくれた。

新人監督(学生コーチから)

「高校生のほうが、しっかり、捕ってるやないか!!」

ということになり、先輩のエラーのおかげで、守備が際立った。

 打撃に入ると、通常は、木のバットなのに、東京・明治高校出身の大学生選手が、隣の明治高校グランドまで入って、金属バットを2本持ってきてくれた。

 打撃投手のピッチャーも、僕のいちばん好きなコースにまとめてくれて投げてくれ、ジャストミートが連発した。

「ハイこれで終了!?」と 新人監督の声。

「風呂に入ったあと、学力テストと作文があるぞ」と明治高校出身の新人監督がある。

同級の投手と風呂に入り、その後学力テストと、作文がある。

秋になり、高校の監督に呼ばれる。

「明治の島岡監督が、蒼島のことを、何だか気に入ってくれたようなんだ。明治で、どうやら、コーチャーとしては、初めてのようだ・・・・・」

部長・監督・助監督の応援があり、翌春、同級生と投手と一緒に、明治大学野球部に入部する。

そして新たな青春の金の汗を流し、たくさんの出会いを刻むことが出来た。

愛媛のスラッガー

明治大学野球部時代とてもお世話になった、沖泰司先輩。

愛媛県の松山商業出身だ。

夏の甲子園では、キャッチャーで、4番で、キャプテン。

愛媛・松山が生んだスラッガーーだ。

 沖先輩の握力は、異常だ。

バットの力比べ。

細いグリップを持った、沖先輩が、太いグリップを持ったほうの選手を、うんとも言わせず

ねじり伏せてしまう。

ふたりがかりでも、ダメだ。

歯が立たない。

 沖先輩に呼ばれ、「 蒼島 、俺の部屋掃除しておいてくれ」といわれ、練習中抜け出して沖先輩に部屋を掃除してました。

 僕が、どうしても大切なことがあり、練習を抜けたい場合は、「俺の使いで、用を頼まれたといって、練習を抜けていい」といってくれました。

野球部の下級生時代というのは、ほとんど自分の意思では、身動きができない環境でもありました。

そんな環境で、沖先輩は、恩人で、今でも感謝です。

沖先輩は、松山商ー明治大ースリーボンドー日本ハム で活躍された。

 なかでも、プロ入りを決定づけた都市対抗野球で、ジャンボスタンドに放り込んだ特大ホームランは、今でも伝説になっている。

沖先輩が、僕の下宿に来てくれて

「野球で道開くけん、よう見とけ」

といってくれた。

有言実行の沖先輩。

ほんとうにそのとうりです。

今、四国アイランドリーグの愛媛マンダリンパイレーツの監督も務める。

愛媛マンダリンパイレーツ・サイトhttp://www.m-pirates.jp/

沖先輩、これからも、応援しています。

紺白戦

真冬の早朝、調布にある明大野球場。
早朝から、紺白戦がはじまる。(紅白戦を明治は、紺白戦と呼ぶ)

寒い時に、焚火を炊きながら、試合をする。

今日も、ベンチ前で、ヤキイモを焼く係りだ。
後輩の広沢君と一緒に、汗をかきながら、ヤキイモを焼く。

彼は、何をやるにも楽しそう。将来、大物になる。

島岡監督が球審をする。

ど真ん中でも、気のない球は、ボールとなる。

反対に、少々ストライクゾーンを外れても、気持ちが入ったと思われる投球は、ストライク。

この場合は、監督がルールブックとなる。

選手も、皆承知している。
紺白戦、紅白戦の季節が間もなくやってくる。

優勝決定戦へ

優勝決定戦の前日。

対早稲田戦を前にして、島岡球場の一塁側のベンチ。

島岡御大の檄が飛ぶ!

打倒 早慶の炎は燃えて!!

「何とか せいっ!!!」

Photo_2

教育のための野球

「この、大馬鹿野郎!」

今でも、明治大野球部時代、島岡監督からの雷声が耳朶にのこる。

 叱られたのは、ベンチ脇の監督室前の、掃除の仕方についてだ。

まず、バケツに水を汲み、水を少々まきながら、ほうきでサッと掃く。

そして、仕上げの水まきと 掃き掃除。

その手順が、悪かったのだ。

後日に、監督が使っていた、ストッキングや、野球日誌の手帳を頂いた。

ムチ(叱咤)とアイ(愛)のある監督だった。

 明治大島岡監督の野球を、一言で言えば

「教育のための野球」

を生涯にわたって実践した人だと思う。

高校野球でも、「野球のための教育」をする学校は、多い。

しかし、「教育のための野球」を実践する高校は、その数は少ない。

生前 島岡監督は、甲子園至上主義や、プロ野球偏重を、真っ向から否定していた。

(甲子園出場組みの選手を、モチベーションの下がった病気患者だといわれたこともあるし、プロ野球界へ、何人送り込んだということは、自分の評価に値しないとも、言われていた。また、同期のキャプテンには、会社で社会人として活躍を期待して、中途半端になるから、社会人野球をやるなともいわれていた。)

島岡監督と僕は、年齢的には、ちょうど50歳の開きがあった。

「教育のための野球」

島岡監督から教わった

このことを、自分のど真ん中において、これからも、球児たちを応援していきたい。http://jp.youtube.com/watch?v=xNVnI0qjQw0&feature=related

春のリーグ優勝

 明大が法大を下し、平成16年春以来8季ぶり32度目の優勝を決めた。

昨年秋には、3季連続の早稲田が優勝し、明治は3季連続2位であった。

 今季も、早稲田の4季連続、優勝が注目されていた。

早稲田と1回戦、9回裏まで、1対3を、粘りで逆転サヨナラ勝ちした(4対3)

この試合、4年生の佐々木一塁手(日大三高出身)が、初のスタメンで起用された。

4月の、社会人とのオープン戦で、死球を受け、右手首を骨折してしまった。

今季は、絶望と見られていたが、早稲田戦に、出場した。

 早稲田の斉藤祐樹投手から、右腕に、デットボールを受けた。

「ヒヤッ」したが、彼は、顔色ひとつ変えず、一塁へ、走っていった。

 明治の4年生の、人間力を感じたプレーだった。

 昨日も、法政の2回戦、0対2で迎えた、8回の攻撃で、佐々木選手は、同点2ランを放つ。

優勝へ、一歩も二歩も、近づける一打だった。

4年生の岩田投手、同じく4年生の江柄子投手が、よく投げた。

1年生の、野村投手(広陵)、難病と戦う柴田投手(愛工大名電)などの、好投もあった。

 4年生の 小林外野手、池田外野手、も攻守に活躍した。

4年生の中野大地捕手も、投手の力を引き出した。

 4年生の梅田三塁手も、捕手からのコンバート、肩痛を乗り越え、よく頑張りました。

そして、主将の背番号10の佐藤二塁手、ほんとうによく、チームをまとめました。上級生が、チームを 引っ張っていった。

 善波監督、「優勝おめでとうございます。大学選手権も、明治の人間力野球を思う存分発揮させてください」

http://www.dai2ntv.jp/p/a/045a/movie.html?d0527_01#

大一番

 「人間力野球」の母校明治大学野球部が、リーグ優勝をかけ、法政大学と対戦する。

今春シーズン、優勝候補の早稲田大学との激闘を勝利、2日後に立教戦にも勝ち、優勝に王手をかけた。

 対する早稲田は、斉藤祐樹投手を含む、4人の投手陣、それに、松本選手など打線も充実していた。

 無傷の連勝で、明治に連勝すれば、4季連続の優勝を決める早稲田であった。

常勝軍団の早稲田は、初戦には余裕さえ感じられた。

まさに、無傷の4季連続優勝に、死角はなしと見られていた。

9回表を終わって、1対3で早稲田のリード。

誰もが、早稲田の勝利だろうと思われた、9回裏の明治の攻撃。

ここで負ければ、翌日、早稲田が連勝すれば、優勝となる厳しい試合だった。

一死をとられ、ランナーなし。

しかし、ベンチを含む全員が、あきらめない。

マネジャーのスコアラーも、試合中、立ちきりで、声をだしている。

ここから、明治の奇跡の反撃が始まった。

 千田三塁手のタイムリーで、1点差にする。

一塁に出た、千田選手のしつこいリードで、早稲田大の松下投手が、執拗にけん制する。

 2対3で、一死1一塁、カウント2-3からの投球を、明治の荒木遊撃手が、ライトスタンドに叩き込む逆転サヨナラーホームラン。

 今春から就任した、善波新監督は「選手全員の思いが、(一振りに)伝わったホームランだった」と試合後、話された。

人間力野球が、常勝軍団の早稲田に勝利した。

 3戦目に、もつれ込んだ試合も、4年生の岩田投手の、意地の投球で、斉藤祐樹投手から勝利をもぎ取った。

 2日後の、立教戦にも、勝利して、いよいよ優勝をかけた 大一番の戦いを迎える。

劣勢を跳ね返す、全員野球、人間力野球で、天皇杯を目指す母校明治大野球部。

 4年生を中心とした、気持ちの入った「人間力野球」の伝統は、今も変わっていない。

http://www.dai2ntv.jp/p/a/045a/movie.html?d0517_01

一事入魂

明治大の島岡監督は「一事入魂」を座右の銘とされていた。

この言葉は、早稲田大学野球部の飛田穂洲先生が言われていた言葉だ。

 島岡監督は、明治の最大のライバルである、早稲田の関係者からも、教えを受け入れる度量があった。

 現に、飛田穂洲門下生の、早稲田大の河合君次氏などにも、実際に、グランドに来て、明治の選手にコーチをしていただいたという。

 その他、法政大OBの成田理助氏、立教大OBの好村三郎氏などにも、コーチしていただいたのだ。

 このように、いいものは、他校のOBの方であろうと、島岡監督は、聞く耳ををもっていた。

島岡監督には、いいものは、何でも吸収するという柔軟性と、どんな些細なことにも、入魂する集中力が卓越していた。

 合宿所の掃除、グランド整備、清潔なユニフォームの着用、心を込めた挨拶など、

「一事入魂」を、身をもって教えられていた。

 「一事入魂」の教えは、時代を超えても、決して色あせるものではないと思う。

人間力野球

明治大野球部の島岡監督は、『人間力』という言葉をよく用いられていた。

「人間力とは、人間が逆境の土壇場で、普段以上に発揮できる力」と影で支えられていた大渓助監督は解説してくださった。

だから、土壇場(一本勝負の負けられない試合)で、普段以上の力が発揮できるような

鍛錬があった。

 大渓監督は、自著『今、ここを生き抜く』(日刊ゲンダイ出版研)で「いい指導者とは、、自分が自分のために最大限に研鑽を積むことが出来る人間を育てることなんです。

 これは、私が島岡御大から教わった教育理念です」

 「人間がいい加減なヤツに野球の技術だけ教えても、「うわべだけの球技」に終わってしまいます。

野球は、もっと奥が深いもの、まず自らが鍛えて磨く、自分でその奥深い野球の真髄を

勝ち取れ!これが島岡御大の野球観であったと回想しております」

「練習(鍛錬)こそ本番、試合はレクレーションだ!~練習こそ真剣勝負、試合はレクレーションだ! そして、不可能を可能にするのだ!人間ならできるだろう!」

 いよいよ日本で、世界で、野球を通じての教育を根幹とする、人間力野球が、開花する時が来た。

二人の新監督

 この春、二人の新監督が誕生した。

一人は、長野・創造学園野球部の大渓弘文監督。

明治大野球部で島岡監督を支えられた、大渓監督です。

コーチ・助監督・監督まで経験されました。

 もう一人は、同じく明治大学野球部の監督になった、善波達也監督です。

神奈川の桐蔭学園の出身です。

 島岡監督のもと、お二人と、同時期に、当時の調布の明治大グランドで、野球をすることができました。

そして、北京オリンピックに、金メダルをかけ、挑戦する星野ジャパンの星野仙一監督。

 三人とも、島岡監督がかかげられていた、『人間力野球』の継承者です。

21世紀の、この時に、高校野球、大学野球、オリンピックと様々な舞台で熱戦を繰り広げます。

 この三人の監督さんの活躍を島岡監督も、きっと見つめていると思います。

「 なんとかせい !」

檄を飛ばされているに違いありません。

 『人間力野球に勝利あれ』

バント

 春季高校野球の関東大会には、帝京高校と日大三高が出場する。

ともに、強打の打撃を軸に、東京を制覇した。

両校の強打のイメージの裏側に、絶妙なタイミングでのバント攻撃がある。

 ベスト8で、日大三対東亜学園の試合。

日大三高の攻撃。

3回までの序盤の攻撃。

ノーアウト・ランナー1・2塁の場面。

4番の左打者の送りバントを成功させる。

東亜学園の先発投手を打ち込み、エース森投手を、ライトから2番手として登板させる。

昨年秋は、森投手の前に、三高打線が抑えられた。

代わり際に、日大三高の先頭バッターは、絶妙なセーフティーバントを決める。

先頭バッターが、すかさず、塁に出る。

 好投手森投手に、揺さぶりをかける。

バントの使い方は、日大三高と帝京高校は、試合の序盤では、対照的だ。

帝京高校は、試合の序盤戦は、まず、バントを使わず、機動力で、揺さぶるをかける。

 スティール、ヒットエンドラン、1・2塁からのエンドランなど、相手チームにプレッシャーをかけていく。

 帝京高校のバント攻撃は、試合の中盤から終盤にかけて、大事な1点を取る攻撃の際、用いてくる。

 両校とも強打のイメージの裏側には、絶妙なタイミングでのバント攻撃のうまさがある。

思えば、母校の明治大野球部時代の、島岡監督は、とくにバントに対して、厳格であった。

 リーグ戦で、バントを失敗すると、次の試合から、その選手は、登録メンバーから、いずれも外されていた。

 夏の、セレクションでも、甲子園経験の強打者に、いきなり、バントをやらせた。

高校生は、面食ったような、表情をしていた。

明治大・島岡監督は、

「バントがうまいか、下手か」をじっくり、観察していた。

春は、帝京高校と日大三高が制覇した。

強打とバント攻撃は、表裏一体だと、つくづく感じた この春の大会であった。

戦国東都大学リーグ

 大学の野球部時代、東都大学野球とのオープン戦が組まれる。

当時の東都大学野球リーグは、太田監督率いる駒澤大学が全盛だった。

 オープン戦なのに、両校の戦いは、勝負に徹していた。

新人監督も、僕たち下級生に、「今日は、どういう日かわかっとるやろ!」と関西弁で

、ピリッとさせる。

東京六大学リーグとは違う、雰囲気がある。

 東都大学野球には、入れ替え戦もある(他大学野球リーグもそうだが)

優勝戦戦線に、上位に残れなくても、最後まで気が抜けない戦いを強いられる。

 東京六大学野球の中でも、当時の明治大野球部もまた独自の文化があり、ある面、高校野球のようだった。

だから、僕は、高校野球を、3回くらい経験したような、感触が今でもある。

 入れ替え戦は、ないのだが、個々の選手の入れ替え戦(?)は、毎日だった。

戦国東都のオープン戦は、とても得るものが多かった。

 白井一幸選手(日本ハムで活躍)も、下級生ながら、レギュラー争いに、名乗りを上げていた。

 駒澤大学のグランドにも、立教大学対駒澤大学のオープン戦をはじめ、視察にいかせていただいた。

 練習方法が、合理的というか、実に無駄がない。東都大学野球リーグから、たくさん学ばせていただいた。

【野球に学んだ大切なこと】

 リーグにも、チームに、それぞれの文化がある。

  ~他者から、どれだけ学んでいますか~

島岡御大と甲子園

島岡監督の球歴は、小学校までしかない。

大学は、明治大学の応援団長だった。

 「人間力」重視の野球を掲げ、高校野球、東京六大学野球に旋風を巻き起こした。

島岡監督は、明治高校の監督を6年間務めたことがある。

その6年間で、3度甲子園に監督としてチームを出場させた。 (選抜2度 夏の選手権1度 )

とくに、夏の選手権は、早稲田実業との決勝で、王貞治選手の5季連続の出場を明治高校サヨナラ勝ちで止めた。

 とにかく、手抜きのプレーや、手抜きの仕事を嫌った島岡御大監督。

「一事入魂」の座右の銘どうり、魂のこもった野球だった。

門前の小僧

「門前の小僧習わぬ経を読む」

島岡監督が、好んでよく指導でつかった言葉だ。

百数十名いた部員に、直接声をかけるのは、難しい。

島岡監督は、「たとえ、直接指導を受けられなくても、真剣ならば、身振り手振りから、毛穴からでも吸収し、学ぶことができる」という考えだった。

言葉で学ぶというより、その熱気、情熱に触れる感じだ。

 紺白戦(明治では、紅白戦をこう呼ぶ)では、よく球審を努められた。

ど真ん中でも 「気のない球は、ボールだ」(?)

その代わり、多少ボール気味でも、「気力、勢いを感じる球は ストライク」(!)

 かなり、ストライクゾーンが 変則だった。

選手もそれを承知で、投げ、打席に入っていった。

早慶戦前には、猛烈な闘志を湧き立たせる監督さんだった。

 

 

一冊の手帳

  「この手帳に野球のことだけ書きなさい」

元旦の早朝。

東京調布の明大野球部のグランドで、島岡御大から手帳をいただいた。

 島岡監督の一年のスタートは、元旦の早朝から始まる。

まず自転車で、グランドを回る。

そして、三塁側の横の監督室に入る。

 一年の必勝と、ビジョンを固めているようだ。

 「ストッキングをはきなさい」

といって、アンダーソックスもいただく。

 全部員に、1年の秋からには、紺帽と紫のストッキングを渡す。

紺帽は、ほんとうなら試合でかぶる最高級の帽子だ。

Mの文字が入る。

ストッキングも紫色のものだ。

 学生たちに、一番いいものを身につけさせたいとの監督の配慮だ。

当時の試合ユニフォームや、学生服(ブレザー)には、猪のマークが入っていました。

島岡監督は、猪の干支、生まれだった。

「学生や選手が、ああだ、こうだ、理屈をこねまわすより、実践、行動、そして思考」 を

求める監督さんだった。

 島岡御大の教え子のひとり、星野先輩が北京オリンピックを決めた。

星野先輩のど真ん中には、きっと島岡御大がおられると思う。

島国野球からの脱却

 明治大学の野球部に入部した春のこと。

レギュラー組みは、アメリカ遠征に行っていた。

日本に残った選手だけで練習が行われる。

 「やはり、大学はいい選手がいるな。」

アメリカ遠征から、レギュラー組みが帰ってきた。

その年の春より、明治大学野球部は、「詰め襟の、黒の学生服」と「坊主頭」を禁止した。

 制服は「紺のブレザー」になり、頭は「スポーツ短髪」になる。

どの大学野球部より先駆けて、あの硬派(?)の明治大学野球部が、形(服装と髪型)を一新した。

 理由は、島岡監督が

◆ 日本の詰め襟の黒の学生服は、海外の囚人服と間違えられる

◆ 坊主頭で詰め襟は、海外では、囚人と間違えられる

海外の人に印象がよくないという

以上の2点の理由で、決断した。

 海外遠征に出かけ、海外の文化人と交流して、島岡監督が判断された。

野球の殿堂入りもされた監督。

先見の明である。

 今、日本の野球しかしらない青年が多い。

視野を世界にむけて、自分たちの野球を見直すのも、たまにはいいかもしれない。

  【野球に学んだ大切なこと】

 世界の中の日本。

 島国だけに通じる野球でなく、世界に通じる野球(マナーも)を

~ 視野は、広がっていますか~

練習日誌

 「一球をおろそかにする者は、一球に泣く」

この言葉を教えてくれたのは、大学の野球部時代の日大三高出身の先輩だ。

 午後の練習中に、先輩から呼ばれる。

「英伍(えいご)!」(僕の大学野球部時代のニックネーム)

「すまんが、合宿所の俺の部屋、掃除しておいてくれ」と頼まれる。

 三高OBの先輩の合宿部屋を掃除する。

練習日誌が、机の上にあった。

 「さすが三高OB すげえな・・・」と分厚い野球の練習日誌の表紙を見る

表紙に、「一球をおろそかにする者は、一球に泣く」とあった。

どうやら三高野球で、語り告がれている教えらしい。

掃除のあと、先輩の部屋で仮眠させていただいた。

先輩の目覚ましを午後3時にセット。30分仮眠させていただく。

 翌日、先輩から「掃除サンキュー。だけど、英伍、俺の部屋で寝ただろう?

目覚ましが3時になっていたぞ」といわれる。

思わず、「(目覚ましの針をもとに直すの)アっ 忘れた。!」

「しまった!」と顔に書いてある。

先輩は、にこっと、笑ってゆるしてくれた。

一球一打を、ほんとうに大切にされていた先輩。

 先輩は、東京六大学野球・春のリーグ戦で首位打者をとる。

変わって、日大一高出身の先輩、強肩強打の三塁手だ。

 グランドでは、元気な声がよくとおる。

僕が同期と住んでいた下宿に訪ねてくる。

机の上に、一冊の手帳を置く。

ちょっとだけ、先輩が席をはずす。

「なんだこれ?」

見てみると、手帳の中身は、野球の練習日誌。

一高OBの先輩の手帳は、練習日誌だった。

手帳の中には「われ以外皆わが師」(吉川英治)と書かれている。

 練習内容が、詳細に書かれている。

「すげえなー」と感心する。

先輩がもどってきた。

すると先輩が、「てめえー、手帳みただろう!」と怒られる。

一高OBの先輩も、見た目は豪放だけれど、繊細に野球をしているんだと感心する。

先輩は、最上級生になり、神宮で大活躍される。

手堅い守備、抜群の強肩、腕の振りが大きく、とにかく早い。

パンチ力のある打撃で、神宮球場にホームランを放つ。

 最後に、母校OBの青山学院大学野球部に入部した同期。(2年の夏甲子園では、6番ライト)。

 やはり、詳細に野球日誌をつけていた。

バッティングや、ピッチング(3年の夏は、マウンドにもたった)についても書いていた。

東都大学野球リーグではベストナインをとり、社会人都市対抗野球でも大活躍する。

 

 神宮球場で大活躍した3人の共通項は、「練習日誌」をつけていたといこと。

さらに、高校時代に教わった教えを大切にされていたこと。

グランドでは、主観的に、積極的にプレーし、グランドをはなれては、練習日誌をつけ、客観的に自己を振り返る。この反復繰り返されていた。

神宮球場で大活躍した、先輩同期の選手に、たくさんのことを学ばせていただいた。

感謝。

【野球に学んだ大切なこと21】

 練習日誌は、自己を客観視する貴重な道具

    ~日誌をつけていますか~

「何とかせいっ!」「「正確に」「確実に」

 星野JAPANが出動を開始した。

星野仙一監督は、大学野球部の大先輩である。

気持ちで投げる星野先輩を神宮球場でも見かけることができ、

星野先輩は、ベンチ裏の控え室の島岡吉郎監督に、たびたびご挨拶に来ていた。

島岡吉郎監督は御大と呼ばれて、

星野先輩の恩師であり、僕の野球の恩師でもある。

下級生時代の2年間、御大監督の監督室前の掃除係をさせていただいた。

自転車を降り、「ご苦労」と常に、頭をさげて監督室に入られた。

時には、「このオオバカ野郎ー!」と掃除の仕方というより、人間としてのマナーが悪いと叱られたこともある。

(来賓者がいらしているのに、ほこりを立てて、掃除をしてしまったのだ。しばらく猛省した)

いまでは恩師の慈愛だったと感謝している。

島岡監督は常に 3つのことをグランドで繰り返し教えてくださった。

守備面では

ひとつは 「正確に」

正確に捕球せよ、ということである。

もうひとつは「確実に」

確実に相手のもとへ投げよ、である。

攻撃面では

ひとつだけ「なんとかせいっ一!」

なんとしても塁に出よ、ということ。

ランナーは、なんとしても次の塁へ進塁せよ。

この3つを繰り返し教えてくださった。

声をだして「正確に」といって捕球して、「確実に」といって相手に投げる。

「なんとかするぞ」と自分言い聞かせて、スイングをしバッターボックスに入る。

ランナーとして、隙あらばひとつでも多く、次の進塁を狙う。

単純といえば単純だけれど、野球に必要なエッセンスがすべて入っている教えだと

あらためて野球の恩師に感謝する。

入学した年、翌年も 全日本大学選手権に優勝でき日本一になれた。

日米大学野球も島岡監督が采配を揮い、勝利することがで、メジャーの予備軍に勝利した。

 常に下積みの苦労する部員に、その労をねぎらった島岡監督。

とくに無名な選手(僕を含め)大切にしてくださる名将であった。

【野球で学んだ大切なこと13】

野球を教えていただいた人に感謝できる人は幸せ

  愚痴や批判の心は 不幸

~野球の恩師はだれですか~